参上ルルのブログ

映画を観て思ったことを徒然と。

へび女は青い鳥を見つけるのか

『ミッション・ジョイ〜困難な時に幸せを見出す方法〜』チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世南アフリカアパルトヘイト撤廃運動の指導者の一人であるデズモント・ツツ大主教が、宗教を超えて幸せや死生観を語り合うドキュメンタリー。二人ともノーベル平和賞受賞者。

 

無学にして初めて知った南アのツツ大主教

アパルトヘイト撤廃運動に身を捧げた政治家がネルソン・マンデラであるならば、宗教指導者の一人がデズモント・ツツ大主教だという。

映画の製作年は2021年ということだが、ツツ大主教も2021年に90歳で逝去している。

映されている二人の対談が2015年ということなので、ご健勝な頃だ。

映画の中でダンスだってする。

茶目っ気たっぷりなのだが、物静かな物言いと慈愛に満ちた眼差しが印象的。

 

初めてみるツツ大主教と比べると、私たち日本人に馴染みが深いのがダライ・ラマ14世だ。

日本でしばしニュースになる外国の宗教指導者は、ダライ・ラマの他にはローマ法王がいらっしゃると思う。

わたしが生まれてから複数人が在位されていると思うけれど、お顔見て「ああ、この方ローマ法王だなあ」とはならない。

ぼんやり皆さん全体が白い、というイメージ。

人種的宗教的に、身近に感じる感じない、という違いがあるのだろうけれど。

 

ダライ・ラマは、わたしが初めて認識して以来、一貫してこの14世で、このお顔は何十年経とうと変わらない。

なんで??時をかけるラマ法王??

顔はツヤツヤしていて、目には好奇心が宿り、声にも張りがあり豪快に笑い飛ばす。

こちらも2024年の今年は89歳になられるはず。

映画の中でも解説があるのだが、幸せというのはただ気分がいいというだけではなく、身体的にも免疫力が高く健康であるため長寿なのだそうだ。

 

とは言いつつも、お二方とも遍歴だけ見れば幸せとはほど遠い人生を歩まれた。

ツツ大主教は、DVを振るう父親をもち母と二人の貧困の暮らしの中で育った。

そのような環境の中キリスト教の宣教師との出会いがあり、宗教指導者として南アフリカ社会の常識であったアパルトヘイト政策に立ち向かった。

ダライ・ラマは、転生者に認定され2歳で母と引き離されチベット仏教の僧侶の中で育った。

そして24歳の時には、中国の弾圧を逃れるため九死に一生を得るような逃避行の末、インドに亡命した。

それ以来、故郷に足を踏み入れることはない。

 

そんな二人が、人々に幸せを説き導き自らの人生で実践している。

二人の対話は、大部分がツツ大主教の娘さんが言うように、「8歳の男の子」同士が戯れ合っているみたいな冗談の応酬。

近所の寄り合い所で幼馴染のお爺さん同士が、茶化し合っているようにも見える。

軽快で明るい二人のやりとりの中で、ファシリテーターから「幸せとは」「死とは」などのお題が投げ込まれると、つと真剣な面持ちで語り合われる。

二人の言っていたことで、印象深かったことが二つ。

一つ目は、「幸せになるのはスキル」だと言うこと。

幸せを外に追い求めても、見つからない。幸せとは自分の中にこそある。

その手段としては、内省に有効な瞑想だという。

なんだか自己啓発本にありそうな話だけれど、科学に興味を持っているラマ法王は、瞑想している僧侶の脳波を調べた。

「ベルを鳴らした10秒後に一瞬の痛みを与える」という実験をしたところ、一般の人はベルが鳴った時点で不安になり、痛みが去った後も脳波は乱れたままだったという。

一方の瞑想している派は、ベルが鳴っても動揺は見られず痛みの瞬間に脳波は乱れたが、その後すぐに元に戻った。

心の平穏、それはスキル。納得。

煩悩まみれの我が身には、道のりはだいぶ遠そうだけど。

 

二つ目は、「赦す」ということ。南アフリカで罪もなく白人警官に射殺された黒人青年の母親が、その警官を赦すことが自分を救うことになると。

ラマ法王は、それにもう一段付け加えた。

「恨みや憎しみの記憶はなくならない。ふとした時に蘇ってくるその感情に距離をとること。それが赦すと言うこと」。

かくいうわたしも普段からネチネチしていて、昔のことを引っ張り出しがち。

我ながら楳図かずおの「へび女か」とツッコミを入れている。

赦すこと───これからの自分の課題にしようっと。

 

映画の最後は、二人が民衆の中で仲良く交流する場面で締めになるのだが、映画インタビュアーを務めた人や、研究者の日々の暮らしの一コマがインサートされる。

その中にラマ法王の英語通訳兼マネージャー的な短髪の穏やかなおじさんがいて、ひとり湖で陽を浴びて泳ぐという「かっこよ!」なシーンが入っている。

なんでそこだけ、プロモーションビデオ?しかもその人てw

 

AI先生が描いた「青い鳥」This art is created by #aipiacasso

フクロウ、見えないところで意外と機敏

『梟ーフクロウー』盲目の鍼師ギョンスは、病の弟を救うため大金を稼げる宮廷で職を得るのに成功した。宮廷では、長らく清に人質に取られていた王の息子である王子夫妻が朝鮮に帰ってきたばかり。西洋文明を取り入れる清の先進性に触れてきた王子と、清に負けた明に未だ忠誠を誓う王、そして彼らを取り巻く家臣たちの思惑が入り乱れる。ある夜、体調を崩した王子の元に駆けつけたギョンスは、ある事実を「目撃」する───。2023年韓国国内で映画賞25冠の最多受賞を記録した傑作。

 

面白っ!すんごいっす!(←語彙力w)

わたしの極私的韓国カルチャー史の衝撃第一波は2000年頃の『シュリ』JSA』で、あの時もあまりの面白さにすっかり魂持っていかれたけれど、それ以来となる衝撃波。

その後も韓国傑作映画は数あれど、理屈抜きの王道エンタメでここまでのクオリティのものは久々なのでは?

なぜ日本でそこまで話題にならないのか不思議。騙されたと思って観てほしいわあ。

 

タイトルの「梟」を種明かしすると、夜行性ということ。

主人公の鍼師ギョンスは、盲目だ。

でも先天性だからか、目が見えないと言っても大体の日常的な行動は普通にこなせる。

なんだったら字も書ける…な訳なくない!?

というのも、絶対に自ら明かさないが、ギョンスは暗闇だととてもぼんやりだが見えるのだ。

太陽の光のもとだと見えなくなる。

 

「貧しいものは見て見ぬふりをしないと生きていけない」が口癖となっているギョンスは、周りが盲目として扱っていることを逆手にとっている節もあり、「盲人なので」「盲人だから」と、あえて普通の健常者の世界に入り込もうとはしない。

ギョンスを目が見えないと思って接する周りの人々。ある人は親切に。でも多くはぞんざいに。

宮廷に召し抱えられても、ギョンスのスタンスは変わらなかったが、王子の治療現場に同行させられた夜、医師が鍼治療と称して毒針で暗殺するのを目撃する。

医師はギョンスが盲目だから同行者に選んだのだ。

ギョンスによくしてくれた王子。そして自分の弟と同い年の王子の息子。

ギョンスの中で、正義がもたげる。

誰が味方で誰が敵か。

伏魔殿の中では、目が見えても本質は見えないものばかり。

 

ギョンスを演じたのは、リュ・ジョンヨルという俳優さん。

今流行りのイケメンK俳優という感じではなく、日本でいう森山未來柄本佑を足して割ったようないぶし銀の風貌が良い。

座頭市みたいな「剣持たせたらスゴいんです」という訳ではなく、鍼の腕は立つけれどそれ以外はごく普通の青年で、面倒臭いことからは離れていたい。

すごく親近感が持てる人物なのだ。

そんな彼がぼんやり視力が回復する月夜に、正義のためそして降りかかる危険から逃れるため奔走する。

『鬼滅』の鬼みたいに、夜にいきなり豹変して無双になる訳ではない。

あくまでぼんやりだから、いろんなとこにぶつかり転がりながら、機転を効かせて一か八かで危機をすり抜けていくのだ。

視力が弱いところが、ハラハラドキドキ指数を押し上げる。

 

見どころといえば、宮廷の美術も絢爛豪華。

宮殿の建物やインテリアだけではなく、韓服もどの衣装をとってもセンスの良い美しさで、どこを切り取っても絵になる。

一人、王の妻だったか、ドリフの雷様が背負っている太鼓みたいに、小さくて丸いアクセサリーを数個顔の周りの髪にアレンジで埋め込んだ高度なヘアースタイルもあったけれど、全然コントに見えなかった。お上品。

彼らの身のこなしも現代とは違うのだけれど、日本の時代劇とも違って興味深い。

位の高い女性は、王の前に座る時にあぐらだったりする。

書をしたためるのも、左手で書いて良いんだ、日本と違って右手に矯正されないんだな、と思っていたら…。

 

いや、だからほんと観てほしいっす!

 

AI先生が描いた「月光とフクロウ」This art is created by #aipicasso.

 

信仰娘とふゆかいな大人たち

裁かるジャンヌ』監督はデンマークの巨匠、カール・Th・ドライヤー。1928年制作のサイレント白黒映画。タイトルのジャンヌとは、ジャンヌ・ダルクのこと。百年戦争ののち、捕えられたジャンヌがかけられた異端審問の顛末を史実に忠実に描く。少女の受難に我々は何を思うのか───。

 

頭悪過ぎてすみませんっ(汗)。

ジャンヌ・ダルクってなんで救国の英雄なのに火炙りの刑に処せられたんでしたっけ?

と思いウィキってみたところ、農夫の娘であるジャンヌは「神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた」。

ふむふむ、そこまでは。

「その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって『不服従と異端』の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた」。

ん、ん??

ブルゴーニュってフランスでしょ。なんでそこで捕虜になる?

とさらなる疑問で、ChatGPT先生にお尋ねしたところ、「この時期、ブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランドと同盟し、フランス内部で反乱を起こしていました」。

「ジャンヌはブルゴーニュ公の支配地域で戦闘を行い、1430年5月23日にコンピエーニュの戦いで捕虜になりました。この戦いで、ジャンヌは包囲された都市コンピエーニュを解放しようとしていたが、包囲軍によって捕らえられました」。

ここまで来て、やっと映画の前段階がわかったぞー!おー!一緒に勇敢に進みましょうぞー!

 

トーキーよりも前のサイレント映画ということで、途中寝ちゃうかもなんて思いながら観始めたが、映画の80%を占める顔のアップで観てるこっち側に緊張を強いられる。

言うなれば顔圧。

寝るどころか、重ーくのしかかる98分。

次々出てくる聖職者の顔も、よくこんな絵に描いたような悪役顔を集めたなという見てて飽きない顔ばかりなのだけれど、やっぱり主役のジャンヌちゃん。

髪を短く切リ頬はこけ、質素な衣服を着て殉教者という風貌。

映画の中では、ずーっと三白眼ばりに大きな目をさらに見開いている。

顔占め80%のうち、90%がこの顔と言ってもよいほど。

このドアップ顔で「なんで私はこの状況に置かれているのかわからない」とずーっと訴えかけるのだ。

言葉ではなく。

極悪同盟のおじさん達にどんなに脅されようと、自身の神への忠誠を曲げないジャンヌなのだけれど、心身ともに消耗したところを言葉巧みに誘導され、一度は信念を放棄しかける。

絶体絶命の中、神のご加護によって?ジャンヌは絶大な信仰心を取り戻し、処刑台への道を選ぶ。

 

ここなんですよ。

せっかく信心を曲げることで命は救われるという道を示されているのに、「神のお導きによって私は信心をとる(そして死にます)」という覚悟。

神は信者を死なすのかなあ。いや、彼らにとって死は死じゃないからいいのか。いいのか?とか。

自分じゃない他者は、いつだって底知れないです。

ジャンヌが処刑台に上がる決心をした時に、一筋の涙を流し今までとはうって変わった柔らかい表情で手を合わせ天を見上げる。

その時の表情と言ったら…!それこそ天女が浮かべるような至福の表情。

このひとときの表情が、この映画の最後のそして最大のピース。

彼女だけの神との対話があったのだろう。

 

AI先生が描いた「ジャンヌ・ダルク」This art is created by #aipicasso

 

 

 

月が見せるもの、隠すもの

『月』辺見庸の同名小説を原作とし、実際に2016年に起きた障害者殺傷事件を題材としている。森の奥にある障害者施設で働くことになった洋子。かつて東日本大震災をベースにした小説を書き、名の売れた小説家となったが、それ以来小説を書くことができなくなった。いわば他に働き口がなかったという消極的な理由で施設へ通うことになった洋子は、入所者への日常的な暴力が黙認されている事実を知る。同僚である年若い陽子とさとくんと交流するようになるが、洋子同様に、彼らも心に鬱屈したものを抱えていた。特にさとくんは施設での勤務を通じてある思想に支配されるようになり、その日は訪れる。

 

さとくんの論理である「コミュニケーションが取れない=心がない=人ではない」は、全くもって共感できず。

自分やその周りの人々が理解できないだけで、心がないと判断するのはどんな了見なんだ。

神様ですか?

もしかしたら、その心は逆にこっちを憐んでいるのかもしれないのに。

「自分が正しい」というその思い込み、狭量加減にゲンナリする。

でも。それさえも何も見えていないことによる思い込みなのか??

 

映画は、実力派俳優の四つ巴となった。

それぞれ一筋縄ではいかない背景を背負っている。

主人公洋子を演じるのは、宮沢りえ

東日本大災害をテーマに書いた小説が売れたが、実は編集者から闇は書くなと指示を受けた自分の本意とはかけ離れた作品だった。

もうけた子どもが病気にかかり話すことがないまま3歳で亡くなって大きな傷を心に負っている。

その夫となるのがオダギリジョー

洋子を「師匠」と呼ぶことからもきっと年下でもあるのだろう。

繊細な心を持ち、定職に就かず部屋に篭り、一人アニメーションを作っている。

このカップルで思い起こすのは『湯を沸かすほどの熱い愛』。

あちらでは、もっとわかりやすくオダジョーがチャランポランな夫で宮沢りえが肝っ玉母さんだったが、このカップルだとどうしても弱い夫としっかり妻という構図が成り立つよう。

本作では、気弱でクリエイティブ志向の夫に無理のない生活をさせ、陽子は新しい妊娠の事実で相手の心に波風を立てないように不安を一人で抱える。

でもって、家計をも支える。

このコンビネーションがピッタリなので、次回の共演があるとするならば、やっぱりこんな感じを期待してしまうんだろう。

 

この二人を向こうにまわして、負けない演技を見せたのが、障害者施設で洋子の同僚になる陽子を演じる二階堂ふみとさとくんを演じる磯村勇斗

「ここは誰もが平等で笑顔溢れる職場です!」

宮沢りえが初めて施設を訪れたときに迎えた二階堂ふみのセリフ。

ほっぺが丸々として若々しく目がキラキラした彼女が放つ言葉は、理想の社会の姿がここにあるのだと思わせる。

しかし、こうあるべきという理想を口にし両親に褒めそやされる彼女もまた、現実とのギャップに一人苦しんでいく。

健康的な表情で明るく振舞う裏で、両親、環境そして何より自分自身によって徐々にコーナーに追い詰められる二階堂ふみ

ボロボロになった時に、自分に残っていたかすかな自尊心を踏み台にして瞳をよりギラつかせてありったけの悪意を詰め込んだ言葉を宮沢夫妻に喰らわす。

やってやった。でもそのあとは…?

 

そして何と言っても磯村勇斗

最近、一年に何本もの作品でお目にかかるけれど、役柄の幅が広くて驚かさせる。

もっと若い時は、元からちょっと捻くれていていじけた感じの若者だったりクセ強な役が鉄板だったような気がするけれど、本作では純粋さが故に狂気に駆られる若者。

自分がケアする人たちのことを想い、自分の時間を使ってレクリエーションのための紙芝居を手作りし練習するさとくん。

それを良しとしない職場の先輩にいじめられ、また自分の努力の成果が目に見える形では表れない職場環境に次第に心が蝕まれていく。

それはひたすら純粋な心の持ち主だから。

一方で、バレない様に入居者に日々暴力を振るい、さとくんの善意を蹴散らす先輩たちがいる。

事件が起こる前にさとくんの計画がいったん表に出て精神病院に措置入院が決まった時、「アイツ、やべえよ」とその異常さにさっと引くバランス感覚はあって、こっち側にいることをアピールする。

ある時点までは、確かにさとくんは善人であり、先輩たちよりずっと我々の側にいたのに。

磯村勇斗の素晴らしい演技は、映画に登場した時と変わらない最終盤の屈託のない笑みで証明されている。

 

AI先生が描いた「森から見る月」This art is created by #aipicasso.

いろんなれいこ

『一月の声に歓びを刻め』北海道の洞爺湖、東京の八丈島、大阪の堂島という三つの島を舞台に、独立した三章立て(最終章はあり)で物語が展開される。洞爺湖と堂島の物語は、性犯罪被害者の家族と被害者自身の長年に渡る苦しみと、それから逃れられないながらも懸命に生きようとする姿を描く。

 

3つの物語の主役は、それぞれカルーセル麻紀哀川翔前田敦子

物語自体に繋がりはなく、3つの物語が三人のそれぞれの色にしっかり染められていたのが印象的だった。

洞爺湖編は、カルーセル麻紀が性被害を負った幼い娘を救うことができず、娘に傷をつけたのと同じ「男性」の性器を除去することで自らを罰した。

そして老境になるまで、娘が亡くなった洞爺湖のほとりで一人静かに生きるという役どころ。

カルーセル麻紀トランスジェンダーだが、理由は違いこそすれ、生来の性に傷つけられたのは役柄との共通点だろう。

年齢を重ねていることもあり、他の二人とは次元が違う圧倒的な存在感。

演技自体も全身を使った舞踊のように苦悩を表現したり、野太い声を張ったりと舞台を見ているようだった。

…たまに、美輪明宏と見違えた。

 

八丈島編は、妻を失い一人暮らす男が5年ぶりに島に戻った苦悩する娘を気遣い、最後にはエールを送る物語。

洞爺湖編が、真冬が舞台の雪景色だったのに比べて、八丈島は広い空や海、緑のなかにある日常など、人間がより自由に動いているようなおおらかなイメージ。

哀川翔は、妻を事故で亡くした後、娘を大切に育てながらも口喧しくは決してしない人情たっぷりの父を演じた。

娘を悲しませた男が島に来るというので、鉄パイプを持って船着場に向かうなどVシネ的なのは、流石の板につきすぎ感。

 

堂島編は、幼い頃に性被害にあった前田敦子が、ついに性的関係を持てなかった元カレの葬式に参列するために故郷に戻り、偶然知り合った男と交流することで自分を解放させていく物語。

前田あっちゃんの映画はあまり観たことがないのだが、若い監督によく絶賛されている記事を読むので、どういう演技をするのか興味があった。

あっちゃんの行きずりの相手である坂東龍汰を引き連れて、1.5日のあいだ街をフラフラする様子が手持ちカメラで追われる。

それがナチュラルで絵になっていて、彼女の得意とする映画はこういうのかなと思った。

一番ぐっと来たのが、あっちゃんが、6歳の時に被害にあった性犯罪の現場を訪れて、花をむしりながら声をあげ泣くシーン。

その嗚咽が6歳の子供が泣いているようで心が抉れた。

 

ところで。

映画が始まる前に、上映館であるテアトル新宿売店で、本作上映記念劇場オリジナルドリンク「れいこの気になる甘酢っぱいソーダ」のポスターを見つけた。

れいこは洞爺湖編のカルーセル麻紀の亡くなった娘の名前であり、堂島編の前田あっちゃんの役名でもある。けれど、映画を観る前であるわたしと一緒に行った友達の合い言葉は「れいこといえば、片岡礼子」。

20年前に観た『ハッシュ!』で大ファンになり、片岡礼子ごっこをやるほどハマったのだ。

ポスターを見てひとしきり片岡礼子について盛り上がった後、映画を観始めたら、なんと、カルーセル麻紀の亡くなった子供れいこの姉として片岡礼子が登場。

耳も顎もシュッと尖っていて、涼しげな目鼻立ちが相変わらず美しい。

そして、役柄も、亡くなったれいこに父親の愛情が全て向かったと嫉妬して、何十年も前に性転換した父を未だに「お父さん」と呼ぶ小意地悪さ。

もぉ〜、ピッタリ!

礼子、サイコー!

 

AI先生が描いた「冬の湖に佇む女性」のイラスト。This art is created by #aipicasso.

小悪魔のお手本

『わたしがやりました』1930年代のパリ。有名映画プロデューサーが自宅で殺された。容疑者は、自宅を訪れていた若手女優のマドレーヌ。マドレーヌとルームシェアし、貧乏生活を一緒に耐え忍んでいる新人弁護士ポーリーヌは、マドレーヌの置かれた状況を逆手に取り、法廷内でマドレーヌを悲劇のヒロインに仕立て上げた。陪審員の心を鷲掴みにしたポーリーヌは、見事に無罪を獲得。新しい時代に声を上げる女性として一躍時代の寵児となる。結果、マドレーヌとポーリーヌは、豪邸に引っ越し優雅な生活を手に入れた。しかし、自分が真犯人だと主張するかつての大女優オデットが現れ…。フランスのユーモア溢れるクライムミステリー。

 

1930年代が舞台ということで、ファッションがクラシックでおしゃれ。

映画の始まりは、マドレーヌとポーリーヌは貧乏コンビなので服装が質素なのだけれど、さすがパリ。

下手したら戦中の工場の制服みたいなのもあるんだけれど、なんだか分からないけどオシャレなのだ。

これがエスプリの為せる技?

そして一大センセーションとなった無罪獲得を足がかりに、セレブになった後のゴージャスなファッションは言わずもがな。

このセレブになった二人とかつての大女優オデットのファッション競演は眼福です。

映画自体が真犯人をめぐるクライムミステリーという括りではあるのだけれど、始終交わされている会話はウィットに富んでいて、軽快で愉しいスウィングジャズをずっと目で聴いている感じとでも言おうか。

フランス語が理解できないのがかえすがえすも残念だなあ。

もし分かれば、三谷幸喜くらいのたたみかけるおかしみの応酬になっていそう。

 

女優が殺人事件の容疑者を踏み台にして、のしあがろうというストーリーラインが、『シカゴ』を思い出させた。

あちらの舞台も1920年代ということで、社会における女性の地位の低さというのは

パリもシカゴも似たり寄ったりと思われ。

似たようなテーマなのに、こんなにも違った仕上がりになるのが面白い。

『シカゴ』は、なんといってもキャサリン・ゼタ・ジョーンズ姐さんの迫力にとって喰われそうだし、レネー・ゼルウィガーのあざとかわいさの凄みは田中みな実くらいでは足元にも及ばない。

成り上がるための二人の必死な形相が、夢に出てきそうなりそうなくらいだったw

翻ってこの『わたしがやりました』。マドレーヌとポーリーヌは20代前半ということもあって、二人が額を寄せ合ってヒソヒソやるところなんて、教室で女学生が悪巧みをしてるのを見るような可愛らしさ。 

後半に登場するキーマンであるかつての大女優オデットを演じるイザベル・ユペールが流石の風格なのだけれど、作風にうまくマッチしたキュートでポップな美魔女になってた。

フランソワ・オゾン監督の作品は、シリアスドラマの「言葉に出さずともその感覚分かるよ、分かるよお」な作品、例えば『まぼろし』とかが大好物なのだけれど、本作のような軽いコメディも一級品に仕上げるその才能。

実に恐るべし。

 

AI先生が描いた「二人のパリジェンヌ」のイラスト。This art is created by #aipicasso.

いつだってアヴァンギャルド

ツィゴイネルワイゼン』1980年制作。鈴木清順監督生誕100年を記念して<4Kデジタル完全修復版>を上映。内田百閒の『サラサーテの盤』他を原作とし、現実に入り組んだ幻想や死の世界などを幽玄な映像美で繰り広げる。ちなみに、鈴木清順は元NHKアナウンサーの鈴木健二の兄。


原田芳雄演じる中砂は旅行先で女の殺人容疑をかけられたところ、友人である大学教授の青地(藤田敏八)に助けられ、投宿先で芸者の小稲(大谷直子)と出会う。

この3人と後に中砂の妻になる園(大谷直子の二役)、そして青地の妻、周子(大楠道代)の5人を中心に織りなす幽玄な世界。

誰か虚言を吐いているのか、全員なのか。あるいは誰かの夢なのか、妄想なのか、登場人物は死んだのか、入れ替わったのか、そもそも実在したのか…。

んー。なかなかです!

これは誰かと一緒に観て、観終わった後に互いの考察を披露し合うのが愉しい鑑賞法かと。

例えば。

中砂の家を青地はよく訪れるのだけれど、その中砂邸への道中というのが山を人が通れるくらいに開削したいわゆる切り通しで、両側に岩山がそそり立っている。

周りに人家などないし、中砂邸にのみ通じる一本道だ。

中砂は生活を旅に捧げ、ほとんど家を空けているが、それでも中砂が家庭を築きいずれは帰ってくる中砂のベースとなる屋敷。

かなり高いところを登ったところにあるのに、何故か屋根に石が落ちてくるところ。

園、そして乳母となる小稲が中砂の留守を守るこの屋敷は、時が経つにつれ入るのにどんどん覚悟がいるようになってくる。

わたしは、この中砂邸に続く切り通しが、『千と千尋の神隠し』のトンネルに重なった。

どこへ繋がる道なのか…。

などなどワンサカ。

 

ツウにはたまらない難解なストーリーともう一つ、世界から評価されているのが「清順美学」と呼ばれる独特の映像美。

ズブの素人の目から見ると、寺山修司とか前衛演劇とかそういうカテゴリーなのかしらと思った。知らんけど。

死んだ女の股から出てくる真っ赤な蟹。

男の眼球を舐める美女。

三角関係の男同士が対決する中、大きな桶に乗って海に流される盲目の三味線芸人の女。

ストーリー上で重要かと言われるとそうではないのだけれど、鑑賞後に曖昧で掴みきれない余韻を味わっていると、フラッシュバックのようにこれらのシーンが蘇る。

 

キャラクターも、それぞれが劇画キャラのように濃ゆい。

特に、やっぱり原田芳雄

長髪が長じて左目は隠れていて右目だけで眼光鋭く相手を射る。

アイシャドウもバッチリで存在感もまんま男・月影先生と化している。

藤田敏八もガタイの良い夏目漱石だし、大楠道代は崩れることのないモガ。

そんな濃ゆさが渋滞しているキャラの中で、わたしの中で勝手に清涼剤にしたのがこの二人。

まずは中砂と青地が小稲と会う宿にいた仲居の佐々木すみ江

原田芳雄相手に「今日はね、あいにく芸者がみんな出払ってて〜」と説明するのだけれど、ここのやりとり。

この映画特有の重さがなく、素の原田芳雄佐々木すみ江の楽屋に出向いて軽く世間話している感じ。

軽っ。

こういうのもいけるんじゃん。

あともう一人は、この宿の厨房で鰻を捌くキミちゃん演じる樹木希林

鰻を捌いては肝だけ持ち帰り、病弱の夫に与えて生きながらえさせてるという噂の主。

印象的なエピソードだけれど鰻をとるキミちゃん自体は、とてもイキイキしていて健康そう。

樹木希林は若い時から老け役おばあちゃんばかりの印象だったから、若さ溢れる樹木希林は新鮮。

やってることはエグかったりするのだけれど。

 

AI先生が描いた「カニ」のイラスト。This art is created by #aipicasso.