参上ルルのブログ

映画を観て思ったことを徒然と。

人は俳優に生まれるのではない。俳優になるのだ

『王国(あるいはその家について)』宣伝文句は「英ガーディアン紙・英国映画協会<BFI>による年間ベスト作品に選出!世界の評論家を騒然とさせた虚構と現実の揺らぐ衝撃作!」

出版社を休職中の亜希は、東京から離れ実家で過ごすことにした。故郷では、幼馴染の野土香(のどか)が結婚生活を営んでおり、亜希と野土香の大学の先輩でもある夫の直人と一人娘の穂乃果(ほのか)と暮らしていた。ある日、亜希は野土香から穂乃果の世話を引き受けたが、台風の荒天の下、穂乃果を橋の上から川へ突き落として殺してしまう。

映画の冒頭は、取調室で刑事が亜希の調書を読み上げる場面で、最後は亜希が野土香に宛てて書いた手紙の朗読で終わる。

 

前情報を仕入れていかなければ、観ながらあたふたしてしまう映画。

劇映画としてのあらすじは、先ほど書いたような、「親友の娘をなぜ殺した?」という大ミステリーがあって、その行動を起こした女性の心理というとても映画らしいものが用意されている。

けれど映画の冒頭と結末の取調室だけが、わたし達が見慣れている劇映画で、そこに挟まれている内容はドキュメンタリーなのだ。

 

・・・うんうん、分からないでしょう。

自分でも何言ってるか分からない。

わたし、頑張って説明していきます。

登場人物が実際に子どもを殺すドキュメンタリーではなくて、映画の冒頭が終わるとこれから進むお話のリハーサル風景のドキュメンタリーへと映画は切り替わる。

女性二人が広々とした部屋で長机に並んで同じ方向を向いて座って、台本を観ながらそれぞれの台詞だけを交互に淡々と読み始める。

まるで国語の音読の授業のよう。

その辺にいる女性が連れてこられて本を読まされているのでは、と客観的に見てしまう。

そのうち、合図があって一区切りつけ、そのシーンを頭からやり直す。

これが繰り返されるリハーサルの出発点。

音読の次は、向かい合って本を読み合う。

その後は顔を見合って語りかけ合い、最後には立って演技をする。

観ている方は、こなれていない音読にギョッとし、これをずっと観せられるのキッついなあと思うのだけれど、同じシーンのリハーサルを繰り返し観ているうちに、「この人たち演技しようとしてるのね」から、違和感のない芝居が出来上がっていくのを目撃するのだ。

最初のうちは、俳優さんが台詞を読んでいるから、1シーンのリハが終わっても本人は全くの地続き。

それこそ、授業終わって「ハイ、休憩」くらい。

けれど、その次のリハーサルが終了する瞬間にはハッと目が泳ぎ、その次の次の次くらいには、終了合図で顔つきが変わって照れ隠しのような微笑みを浮かべる。

映画になった!

幾層にも積み重ねられて、最後のてっぺんの表層が私たちが普段見ている映画だったんだ。

 

この映画の物語自体は、人は限られた親しい人との間にその人としか分かり合えない関係性=王国を作り出すことが大きなテーマになっている。

他の人は入り込むことはできない。

少女の時に作った王国と、そこから出ていった相手が大人になって作った王国との間に出きる軋轢。

この映画のストーリーも相当引き込まれるけれど、一歩引いて映画全体を見ると何度も何度も繰り返されるリハーサルを通じて一つの確固たる物語=王国を作り上げて行くのだということもわかってくる。

なあんて、的外れでもなんでも誰かと話したくなる映画だった。

 

そんなわけで、映画の中で観客は飽きるほど同じ台詞を聞かされる。

中でもこっちが嫌でも覚えてしまったのが、女性二人の中学の時の吹奏楽部に入った友達のあだ名が「マッキー・ザ・グロッケン」か「グロッケン叩きのマッキー」かのどちらかということ。

ザ・中学生!

呼ばれてたマッキーは、なぜかプロレスラーもどきとなったあだ名を苦々しく思っていたに違いない。

吹奏楽部なのに、なぜ...。

おかげでわたしも中学のときのあだ名を思い出した。

学級新聞の編集長を仰せつかったら、いつの間にか呼び方が「編集長」から「酋長」になってた。

モヤッてたわあ。

 

AI先生が描いた「並んで座る女性二人」This art is created by #aipicasso