『ありふれた教室』カーラは新たに赴任した中学校で1年生を受け持っている。ある日、盗難事件が起こり担任している生徒が疑われた。疑われた移民としてのルーツを持つ生徒は無罪を主張し、証拠も出ないため調査は終了した。しかし校長や他の教師たちの強引な調査に反発を覚えたカーラは、頻発する盗難事件を独自に調査するため自分の財布を囮に盗撮を仕掛けた。そこには特定と思われる人物が確かに映っていた。しかし、カーラが起こした行動が原因となり、同僚、保護者、生徒たちに波紋が巻き起こる。
学校の先生を生業としている全世界の皆さま、お疲れ様ですっ!
映画は99分しかないのだけれど、正義感が強く生徒のためを思う行動が次々と裏目に出て、カーラがどんどん窮地に追いやられていく様に胃がキリキリした。
国は変わって日本でも、先生たちの精神疾患による休職、学級崩壊、モンぺの話題なんかを頻繁に聞くようになった今、教育現場は映画とそう変わらないんじゃないかと思う。
先生をやってる友達たちを思い出して、思わず心で手を合わせたくなるくらい。
絶対自分にはできない尊い職業。
日本に限って言うと、昔は先生と生徒の関係も違っていた。
わたしは昭和の小学生だったけれど、前提として「先生の言うことは聞くもの」という不文律が刷り込まれていて、基本的には先生は絶対的な大人。
そして、子どもは庇護されるけど管理される対象。
間違いなんかするはずがない先生が、何かの弾みでボロを見せると、途端に生徒たちは「なあんだ」とある意味ガッカリし、若い先生だったらあからさまにバカにしたり、そうでない場合は陰でディスり始めたり。
偉人聖人 or NOT。
生徒たちから冷徹な目でジャッジされていた。
今の日本の学校は、そこからさらに先生が生徒の目線まで下りてきた。
グローバリズムに乗って、個性を重んじそれぞれの子どもの権利や主張を重要視するようになったんだろうなと想像している。
もちろん昔あった体罰の厳禁化は良いことに決まっているのだけれど、先生の言うことを聞かなくても「子どもの個性を尊重しましょう」。
はては、親から見て子どもがなんか違ったら、「はい、先生の指導力不足!」
って、どんだけ先生背負わされてるのぉ。
うぅ、おいたわしい。
映画は、ドイツの中学校(生徒は年齢的に小学生くらいにも見える)が舞台。
日本の教室のちょっと先の将来のような気がしてくる。
先生のカーラは、子どもや親の主張を尊重し(しかも「そんなことあるかいっ」て主張)、不当な扱いがないように守ろう守ろうとする。
けれど、子どもはカーラの気持ちなんて意に介せず敵意まみれの主張をぶつけるだけだし、親は親で「こうなったら徹底抗戦」という頑なな態度は崩さない。
学校は、強ワードな「不寛容方式」なるものを採用していて、問題が起こっていったんクロと裁定が下されたら、即アウト。
出ていってもらいます、というもの。
なんか全てにおいて、アソビというか余白がないんだよなあ。
カーラ含め皆に言えるのだけれど、主張するのは全然いいんだけれど、言・い・方。
誰もが自分に固執し過ぎていて、相手のことを慮れない。
そんな言い方されたら、さらに意固地になっちゃうじゃん。
対話においては、不寛容、ダメ絶対。
追い込まれていくカーラは、途中親から面罵を受け過呼吸になったり、廊下をすれ違う人間が全員犯人と同じ服を着ている幻影を見たりする。
それでも逃げないカーラ(涙)。それも今の時代どうなんだ!?
壊れてしまうのではとハラハラする。
かくなる上は、最終手段を考えました。
先生の皆さん、これからの時代、「生徒が守りたくなる先生」へのキャラ変するのはどうですか。
先生たちが教室でサバイバルしていく道になるかも!?
AI先生が描いた「教室の生徒」This art is created by #aipiccaso