『月』辺見庸の同名小説を原作とし、実際に2016年に起きた障害者殺傷事件を題材としている。森の奥にある障害者施設で働くことになった洋子。かつて東日本大震災をベースにした小説を書き、名の売れた小説家となったが、それ以来小説を書くことができなくなった。いわば他に働き口がなかったという消極的な理由で施設へ通うことになった洋子は、入所者への日常的な暴力が黙認されている事実を知る。同僚である年若い陽子とさとくんと交流するようになるが、洋子同様に、彼らも心に鬱屈したものを抱えていた。特にさとくんは施設での勤務を通じてある思想に支配されるようになり、その日は訪れる。
さとくんの論理である「コミュニケーションが取れない=心がない=人ではない」は、全くもって共感できず。
自分やその周りの人々が理解できないだけで、心がないと判断するのはどんな了見なんだ。
神様ですか?
もしかしたら、その心は逆にこっちを憐んでいるのかもしれないのに。
「自分が正しい」というその思い込み、狭量加減にゲンナリする。
でも。それさえも何も見えていないことによる思い込みなのか??
映画は、実力派俳優の四つ巴となった。
それぞれ一筋縄ではいかない背景を背負っている。
主人公洋子を演じるのは、宮沢りえ。
東日本大災害をテーマに書いた小説が売れたが、実は編集者から闇は書くなと指示を受けた自分の本意とはかけ離れた作品だった。
もうけた子どもが病気にかかり話すことがないまま3歳で亡くなって大きな傷を心に負っている。
その夫となるのがオダギリジョー。
洋子を「師匠」と呼ぶことからもきっと年下でもあるのだろう。
繊細な心を持ち、定職に就かず部屋に篭り、一人アニメーションを作っている。
このカップルで思い起こすのは『湯を沸かすほどの熱い愛』。
あちらでは、もっとわかりやすくオダジョーがチャランポランな夫で宮沢りえが肝っ玉母さんだったが、このカップルだとどうしても弱い夫としっかり妻という構図が成り立つよう。
本作では、気弱でクリエイティブ志向の夫に無理のない生活をさせ、陽子は新しい妊娠の事実で相手の心に波風を立てないように不安を一人で抱える。
でもって、家計をも支える。
このコンビネーションがピッタリなので、次回の共演があるとするならば、やっぱりこんな感じを期待してしまうんだろう。
この二人を向こうにまわして、負けない演技を見せたのが、障害者施設で洋子の同僚になる陽子を演じる二階堂ふみとさとくんを演じる磯村勇斗。
「ここは誰もが平等で笑顔溢れる職場です!」
宮沢りえが初めて施設を訪れたときに迎えた二階堂ふみのセリフ。
ほっぺが丸々として若々しく目がキラキラした彼女が放つ言葉は、理想の社会の姿がここにあるのだと思わせる。
しかし、こうあるべきという理想を口にし両親に褒めそやされる彼女もまた、現実とのギャップに一人苦しんでいく。
健康的な表情で明るく振舞う裏で、両親、環境そして何より自分自身によって徐々にコーナーに追い詰められる二階堂ふみ。
ボロボロになった時に、自分に残っていたかすかな自尊心を踏み台にして瞳をよりギラつかせてありったけの悪意を詰め込んだ言葉を宮沢夫妻に喰らわす。
やってやった。でもそのあとは…?
そして何と言っても磯村勇斗。
最近、一年に何本もの作品でお目にかかるけれど、役柄の幅が広くて驚かさせる。
もっと若い時は、元からちょっと捻くれていていじけた感じの若者だったりクセ強な役が鉄板だったような気がするけれど、本作では純粋さが故に狂気に駆られる若者。
自分がケアする人たちのことを想い、自分の時間を使ってレクリエーションのための紙芝居を手作りし練習するさとくん。
それを良しとしない職場の先輩にいじめられ、また自分の努力の成果が目に見える形では表れない職場環境に次第に心が蝕まれていく。
それはひたすら純粋な心の持ち主だから。
一方で、バレない様に入居者に日々暴力を振るい、さとくんの善意を蹴散らす先輩たちがいる。
事件が起こる前にさとくんの計画がいったん表に出て精神病院に措置入院が決まった時、「アイツ、やべえよ」とその異常さにさっと引くバランス感覚はあって、こっち側にいることをアピールする。
ある時点までは、確かにさとくんは善人であり、先輩たちよりずっと我々の側にいたのに。
磯村勇斗の素晴らしい演技は、映画に登場した時と変わらない最終盤の屈託のない笑みで証明されている。
AI先生が描いた「森から見る月」This art is created by #aipicasso.