『フェイブルマンズ』監督であるスティーブン・スピルバーグの自伝的映画。
恐る恐る初めて映画館を訪れて以来、映画作りに夢中になった少年サム・フェイブルマンズ。
敬愛する両親の揺れ動く関係に悩みながらも、映画を撮ることを糧に成長する姿を描く。
映画のエンドロールのはじまりに「リアに(捧ぐ)」「アーノルドに(捧ぐ)」の献辞が映される。
この二人がスピルバーグの本物の両親の名で、それぞれ2017年と2020年に亡くなったのだそうだ。
2022年にアメリカで公開されたことを考えると、父の最晩年にこの映画の制作を始めたのだろう。
この作品は、スピルバーグの映画への情熱を追いかけると同時に、科学脳の父と芸術脳の母の二人の繊細な関係を温かい目で総括した話とも言える。
興味が全く別のところにある両親だが、天真爛漫で時に少女のような母のことを堅物の父は崇拝していた。
母が自分と似たところがある父の友人をただの友人と思えなくなり、熱い視線で見つめるようになったことを父は知っていたが、それさえも見惚れていたように思える。
母が言い出さない限りは、この綺麗な宝物を手元にずっと置いて、本人が何を思っていようがただただ惚けて愛し続けた。
母は母でそのことも承知しながら父をそして子供達を最愛の家族と思うからこそ、サムが偶然フィルムに撮ったことで母の秘密を知ってからも長く家族の元に留まったに違いない。
最終的には家族の元を去るのだが。
はい、ここ。いいですか。注目ですよ。
なんともザ・アメリカンである。
「わたしはわたしを偽らない」というのが、母の決意だったのだが、彼女にはぜひ日本映画の名作『あ・うん』を観てもらいたかった。
現在では、日本でもサム(スピルバーグ)母のように行動する女性・男性が多くなっているのは重々承知だが、ここは敢えて、もはや忍耐プレイとも言えるくらいな個を殺して相手を想う昔の日本人の美徳(?)に思いを馳せるのである。
耐えて耐えて、忍んで忍んで、耐えて忍んで、また耐えて。
ここまでやれば、我を超越した存在へとトランスフォームできるのではないだろうか。
脱線したが、このような両親のもと誰にも言えない苦悩を抱えながらも、映画作りは諦めなかったサム少年。
映画は見たままを撮るものであるのと同時に、見せたいもの、観客が見たいものを撮るのだということを学んでいく。
両親との葛藤から目を背けたかった少年は、その後SFだ、ファンタジーだと自分が見たいもの、そして現実に悩み生活する人々に見せたいもの、彼らが見たいものを次々と世に送り出していったのだ。
AI先生が描いた「映写機」のイラスト。I created this art by #aipicasso.